今日のカンブリア宮殿はモンテールだった。
アルコールインで見たせいか、とても良かった。
社長は、
「自分が本当に食べたいか」
ということを大事にしているという話だった。
「何が好きか」を第一原理に掲げることは、誰にでもできることではないと思う。
それを主張するには、自分が好きなことをやっていることが絶対条件だからだ。
何をしたら売れるかという、shouldの理論ではなく、やりたいというwantもしくはlikeの
理論をベースにできるには、自分が好きなことがあり、かつそれにに誇りを持っている必要がある。
何かの本に、社長がwantではなくshouldしか言わなくなったら、その会社はもう勢いがないといった主張が書いてあったが、その言葉を思い出した。
社長以外でも、今回映っていた社員の方は、フィーチャーされていなかった方も含めて
皆輝いて見えた。やっぱりみんな好きなことをやっているからだろうか。
それなら自然と一生懸命になれるだろう。
一生懸命に仕事をする姿は、なんと美しいんだろうと、思ってしまった。
自分は最近一生懸命仕事をしているだろうかと考えた。
立場が派遣だからとか、一生懸命やることを業務支持者があまり求めていないからとか、
色々な(まっとうかもしれない)言い訳もあって、一生懸命にならないようにすらしているのかもしれない。
しかし、一生懸命やるのは、なにも上司(業務支持者)を含めた回りの人のためではない、と気が付いたような気がする。
理屈で考えれば、仕事をするのは、突き詰めれば顧客満足のためだし、ブレークダウンすれば自分の上司のためだ。
...ほんとうにそれだけだろうか。
仕事をするのは、自分のためでもある。
給料のためだけに、仕事をしているのではない。よく考えると、たぶん話はそんなに単純ではない。
物理や数学はいつも単純で明快だが、毎日の生活はロジカルではない。
一生懸命にやっても、それをまるまる潰される可能性が、今はそれなりにある。
たとえば、いきない「もうそれいらなくなった」と言われる可能性(しかも観測可能な量の悪意も含んで!)もあるし
「(自分でやりたかったのに。。。)」の様に、会社の成果よりも個人の成果に重点を置く人から
悪く思われてしまうこともある。
でも、一部考え直そう。
そのように、結果をもしほとんどすべて否定されてしまっても、
ひたすら一生懸命にやったことは無駄だろうか。
否。一生懸命にやったのは「成果のためだけ」という仮定が、おそらく少し間違っている。
適当に仕事をこなし、のっぺりと過ごしていた時間よりは
一生懸命にやった時間が自分にとっては大切の様な気がする。
手を抜いた仕事が何事もなく終わるより、
一生懸命にやって、(もしかしたら悪意ある)否定をされる方が
まだましな気がする。少なくとも「仕事」が好きな自分にとっては。
振り返った時に、
どうせやってもやらなくても一緒だから、空気読んで適当にやった
というよりも、
とにかく一生懸命やったけど、あまり認められないことが多かった
のほうが、自分には素敵に映る。
世間の人にはどちらがどう映るのだろう。
アルコールインで見たせいか、とても良かった。
社長は、
「自分が本当に食べたいか」
ということを大事にしているという話だった。
「何が好きか」を第一原理に掲げることは、誰にでもできることではないと思う。
それを主張するには、自分が好きなことをやっていることが絶対条件だからだ。
何をしたら売れるかという、shouldの理論ではなく、やりたいというwantもしくはlikeの
理論をベースにできるには、自分が好きなことがあり、かつそれにに誇りを持っている必要がある。
何かの本に、社長がwantではなくshouldしか言わなくなったら、その会社はもう勢いがないといった主張が書いてあったが、その言葉を思い出した。
社長以外でも、今回映っていた社員の方は、フィーチャーされていなかった方も含めて
皆輝いて見えた。やっぱりみんな好きなことをやっているからだろうか。
それなら自然と一生懸命になれるだろう。
一生懸命に仕事をする姿は、なんと美しいんだろうと、思ってしまった。
自分は最近一生懸命仕事をしているだろうかと考えた。
立場が派遣だからとか、一生懸命やることを業務支持者があまり求めていないからとか、
色々な(まっとうかもしれない)言い訳もあって、一生懸命にならないようにすらしているのかもしれない。
しかし、一生懸命やるのは、なにも上司(業務支持者)を含めた回りの人のためではない、と気が付いたような気がする。
理屈で考えれば、仕事をするのは、突き詰めれば顧客満足のためだし、ブレークダウンすれば自分の上司のためだ。
...ほんとうにそれだけだろうか。
仕事をするのは、自分のためでもある。
給料のためだけに、仕事をしているのではない。よく考えると、たぶん話はそんなに単純ではない。
物理や数学はいつも単純で明快だが、毎日の生活はロジカルではない。
一生懸命にやっても、それをまるまる潰される可能性が、今はそれなりにある。
たとえば、いきない「もうそれいらなくなった」と言われる可能性(しかも観測可能な量の悪意も含んで!)もあるし
「(自分でやりたかったのに。。。)」の様に、会社の成果よりも個人の成果に重点を置く人から
悪く思われてしまうこともある。
でも、一部考え直そう。
そのように、結果をもしほとんどすべて否定されてしまっても、
ひたすら一生懸命にやったことは無駄だろうか。
否。一生懸命にやったのは「成果のためだけ」という仮定が、おそらく少し間違っている。
適当に仕事をこなし、のっぺりと過ごしていた時間よりは
一生懸命にやった時間が自分にとっては大切の様な気がする。
手を抜いた仕事が何事もなく終わるより、
一生懸命にやって、(もしかしたら悪意ある)否定をされる方が
まだましな気がする。少なくとも「仕事」が好きな自分にとっては。
振り返った時に、
どうせやってもやらなくても一緒だから、空気読んで適当にやった
というよりも、
とにかく一生懸命やったけど、あまり認められないことが多かった
のほうが、自分には素敵に映る。
世間の人にはどちらがどう映るのだろう。